食い意地日誌:真昼の餃子編

書くのも恥ずかしいぐらい馬鹿々々しいトラブルが重なって、とある書類を某所まで手で持って行く事になったのだった。kinko's でネット上に保管しておいたデータをプリントアウトしなおして(しかしあんな便利なものがあったとは知らなんだ)、その足で某所を経由して某所へ。書類を渡したあと次の用事までしばらく時間ができてしまったので、ちょっと周辺をブラブラする。このあたりも超高層マンションが開発中だった。古い低中層ビルとの混交で、街のスカイラインはますます21世紀らしく、魅惑的になる。

横丁に入って食事場所を探すと、だいたい向かいあうぐらいの位置にそれぞれ少し列のできている店がある。片方はカレーや定食の店らしく、もう片方は餃子の専門店。餃子屋の方が4人ほど待ってるだけだったので、そちらにする。程なくして店内へ。適度な温かさ、まっとうな味の中国茶が出てきた。飲み干す。餃子ライスをたのむ。

焼き餃子8個にどんぶりに入ったライス、それに香の物がついた内容。タレにはラー油は無く、テーブルにも置かれていない(一味唐辛子はあるが)。そういうものなんだ。餃子は皮をきっちり閉じたものでなく、くるっと巻いてあるだけで、これを鉄板に押し当てて焼いてある。中身もニラやニンニクなどは無い(か、殆ど感じない程度)ようで、豚肉のみである。この作り方、日本式焼き餃子というより、中国のオーセンティックな『鍋貼』といった感じがする。

しかしそれが矛盾といえば矛盾で、焼き餃子=鍋貼は中国及び韓国では屋台で売られるおやつ的なもの。また、餃子とごはんを一緒に食べるというのは、中国ではパンとごはんを一緒に食べるのと同じぐらい奇妙な食べ方だ。本来餃子=水餃子はそれのみで炭水化物+各種栄養の食が完結するものなのだから。まあ水餃子でなく鍋貼をちゃんとした食事として食べようとすれば、それのみでは焼いてあるだけに脂っぽくて、ごはんが必要になるのは当然なんだけど。いや文句を言うつもりじゃなくて、逆にその微妙なアンバランスさの上に成り立ったこの定食が、外来食の変遷を肌で感じられるようで愉しいじゃないか。

最初のひとつを口に入れると、ふっと豚の臭みが感じられ、消えてゆく。これを臭いと感じるか、趣があると感じるかで全体の印象も変わるか。ふたつほどクニクニと噛み応えのある、まんま脂身でーすといったものがあった。面白い。和からしがテーブルにあったので、それをつけてみる。肉の脂がすーっと押さえられるようで、これも美味しい。しかし全体として言えば、舌が止まるほどの衝撃の味があるわけでもない、よくまとまった普通の餃子だった。タレも普通。640円は、やはり少し高いように思えてしまう。店が悪いんじゃなくて日本の物価が悪いのだ。水餃半斤300円とか、そういう時代が来てほしいものである。実は1時以降のメニュとして水餃子や天津式の饅頭なんかもあるようで、そっちのほうが食べてみたいな。

さてこの店、古くて狭く安っぽい内装のいかにもな店構えなんだが、妙に清潔感がある。テーブルも古く配置はキツキツだし、壁は表面クリーム色のベニヤ。しかし、ベタベタとメニュの紙が貼られていないことを差し引いても(一点、『オヤジの一言』とかいう僕が毛嫌いする類の安文章が額に入ってたが)、このスッキリ感はなんだ。思って見まわすと、テレビとエアコンだった。エアコンは店の規模にもかかわらず業務用の天井に張り付くような形の大型の。そして、テレビは白い液晶薄型が壁にかかっている。旧来の家庭用エアコンも黒いテレビも、かなりヴォリュームのあるプラスティックの塊だ。油に汚れたアレが、いままでの食堂の薄汚さにおいて大きなウェイトを占めていたということに、気づかされた。エアコンを金属製の平たいのにして、テレビを白く薄くするだけで、こうも変わるとは。科学技術の恩恵をまたひとつ、感じてしまった。

圏外日誌補足:このエントリは神保町『スヰートポーヅ』についての記録。


帰りに近くの古本屋で、ホーガンの星を継ぐもの、ガニメデの優しい巨人、巨人たちの星を大購入! この日記を読んで、この3部作をいままで読んでなかったのは人生における大いなる誤りであり無駄であると感じた為。しかし買ったらなんかそれで満足。ダメだダメだっ。


  • 朝食べず。
  • 昼上記のとおり。
  • 夜メロンパン。ていうかそれ食べて寝ちゃって気づいたら朝の4時。食べ損ねた。