通夜

そういえばそろそろWebで日誌をつけ始めて10年になるけれど、なぜこういう事をするのかの議論は最初の1〜2年でやって納得した。内容はどうあれ、紙やクローズドな媒体に書いてしまっておくよりも、100年後、1000年後に、ほんの少しでも意味はあるかもしれない。そう思うことにしたのだった。しかし、とても10年とは思えない。

そんなわけで祖父が死んだ。土曜日の朝にもう意識がほとんどないよという電話を受けて、すぐに駆けつけるでもなくうだうだとベッドの上を離れずにいて、その夜19時40分だったそうだ。それで何がかわるでもなく、日曜も無為に過ごし、月曜は出社し、きょう通夜、あす式。

83歳だった。結婚して、56年と言ったかな? 83年ずっとあの家で暮らしてきた。そう聞くと、改めて凄い。

本当に、今更ナイーブ過ぎだと思うけど、人が老いて死んでゆくのがこんな苦しく辛い事だとは思わなかった。老衰で弱った肺が破れ、それから毎日のように体のどこかが壊れてゆく。辛いのは、ボケなかったことだ。口も利けず視点を合わせるのもできづらくなってゆくのに、確かに意識は正常にある。6月からそういう状態を、家族で共有していた。

人類史上例外なくあらゆる人々が同じ苦しみを経験している、過半数がこれより何倍も辛い苦しみを経験しているというのが、俄かには信じられない。自分だけが辛い経験をしていると思いたい(まったく薄っぺらい人間だ!)。

盆休みに見舞ったときは、祖父は本当に苦しそうだった。見ているだけで涙がにじんで、こらえるのが大変だった。それでも孫二人が毎日見舞って、生きる気力がでたのか、1週間のうちに少しずつ安静をとりもどしていったようだった。土曜日、新幹線に遅れそうだったため、ほんの少しだけ立ち寄ったとき、祖父がかすれ声で「まだ3分も経ってない」と言ったのが聞こえた。だが、また来るからねと言ってそのまま病室を出た。本当に馬鹿だと自分を呪った。

それから次の週、水曜に名古屋出張に行った帰りに、また立ち寄って見舞うことができた。ひょっこり顔をだすと、本当に驚いて、とてもうれしそうな笑顔を見せた。そのときは、声をかなりだせるようになって、雨が降ったの降らないので、祖母に憎まれ口を言うぐらいに回復していた。せんべいを食べたいと言っていたそうだった。

そのときが一番長く祖父の所にいた。8時の面会終了時間を過ぎて、ひととおりたわいもない仕事の話や、家の話や、思い出話などをしたと思う。仕事が忙しいという話をしたら、時間を作っても(見舞いに)来るものだ、というような言い方をされた。ストレートな欲求だったんだろう。仕事をがんばれなどとはもう言わない。近くにいてくれ、と言う。

別れるときは、元気な頃にいつも言っていた言葉と同じだった。「またすぐに来いよ。風邪に気をつけろよ」 そしてこう付け加えた。「おじいちゃんも頑張って治すでな」

よくも言ったものだ! クソッ! おそらくこのまま死ぬだろうとある程度自覚していただろうに! まるでこれが単なる病気で、また昔の健康を取り戻せる、そう信じているかのように言う! 何なんだ。なんで永遠に生きられないんだ。クソッたれ。本当に勘弁してほしい。

まったくよくある話だが、これが僕と祖父との最後の会話になった。先週末には睡眠時間が長くなり、そのまま昏睡となり、死んだ。生きる気力を持って肺の苦しみから脱し、そうして安らかに死んだわけだ。そう思いたい。



3時過ぎに家から出棺。足袋に草鞋に、白布の手っ甲なんてつけるんだな。忍者ハットリ君以外でとんと聴かない単語だった。あたまに三角つけないだけで、手足にはほんとうに黄泉への旅装束をするわけだ。伝統って凄い。葬儀屋の進行サービスは、現場で叩き上げられて完成した芸術のようだ。

出棺後は葬儀会館へと運ばれ、会場では遺族席で1時間半も、次々と焼香しに来る見ず知らずの客に礼をしっぱなし。通夜で親類縁者に酒と料理を出す風習は、飲酒運転となるからもう無いそうだ。不味い仕出しの寿司を食べ、祖母と妹と3人で、会館に泊まることとなる。それで今。

祖父は棺桶カプセルに入れられ、40畳の部屋に安置されている。顔窓のプラスティックカバーごしに見ると、エンバーミング(っていうんだっけ?)の技術は本当にたいしたものだ。祖母は、「おじいちゃん今夜はここにひとりで寝るんだよ」と何度も語りかけていた。体がまだ存在するというのは、辛い。明日、あの窓を閉めることを想像するだけで、また涙が出そうになる。

まったく、何とかしてほしい。これをあと何度か経験しろというんだから、たまらない。

人生とはそういうものだ、それ以上の回答が出てこないというのが、また悲しい。ほんと、人生とはそういうものなんだな。今更ながら。