別れ話。

徹夜明けの朦朧とした頭で入ったカフェで冷たいモカを飲んでると、隣りに座ってた男の席に女がやってきた。「遅くなってごめん」と言う女は既に30過ぎの肌だが化粧も薄く地味なスーツ、どこか童顔。「全然待ってないよ」と応える男は僕と歳も同じぐらい、かなり頼りなさそうなリーマン姿。出勤前のひとときですかホウホウと腐れた脳味噌でふたりを祝福してたら、続きがあかんかった。

何がどうなったのかは知らんが(ていうかそんな耳そばだててたら気色悪い)、とにかく非常に胸苦しい情況になってしまったことに気づいた。ただただ女が泣くとか、激しい口論があるとか、しらけと軽蔑と倦怠の空気が漂うとか、そのいずれでもない。そこにあったのは、男が黙り、女がとうとうと言葉を紡ぐという情況。僕がいちばん、なんというか……、共感、してしまう情況だ。

女は真っ直ぐ男の目を見る。そして低く小さく抑揚無く、しかし明確な発音で、ある程度の長さのセンテンスを言葉を発してゆく。3度に1度は、疑問形で終わる。時には諭すように語っているようにも見える。言葉の仔細はもちろん聞こえないが、どのような事を言って、訊いているのかは容易に想像がつく。要は、あたしを馬鹿にしないでよ、ということだ。

男というのは、と性別で括りたくも無いのだがまあ仕方ない、男というのは馬鹿なもので、どんなにフェミニスト気取りで、どんなに平等の愛を望んで、どんなに自らを弱い男と自認していても、つい、女性に対して、護ってやらなければ、という意識が働いてしまうときがある。

それは多分男性のほうが概して女性より体格が大きいので、抱いたときに包み込むような位置になってしまうからかもしれない。しかし、その「護ってやりたい」という意識は一方的で、そこから、傲慢がつけ入りはじめる。女性を護るべきものとすれば即ち、相手を弱いもの、と感じ始めることになる。自分より弱く、劣ったもの、と見るようになる。例え大脳皮質でそんなセクシズムを否定していても、その深層のどこかで。

たとえば女性がなにか些細なドジを踏んで、それをおちゃめだなあ、と思っても、そこに女性に対する微かな優越感が潜んでいる。頼れる男になろう、という努力の陰に、女性に対する独善的な意思、突き詰めれば支配欲が見える。

男は馬鹿だから、そんな陰やほころびが、ぽろぽろと出てしまっていることに気づかない。大きくなっていることに気づかない。そして更に悲惨なことに、今自分が付き合っている女性が、独りで強く生きてきた人間であることに気づかない。男の隠れた傲慢と独善を特に強く体で感じて、嫌悪してしまう種類の人間であることに気づかない。

そして今、30過ぎの化粧の薄いOLは、実は傲慢であった男にとうとうと理と気を説くのだ。アンタはいったい何様なのよ。それが良いと思っているの? なんでそう思うの? そうするの? 私はそれを望んでいない。私は自分でこうできる。私を一体なんだと思っていたの? おかしいじゃない。違う。そういうものじゃないでしょう。

僕は居た堪れなくなって、モカを飲み干し席を立った。問題なのは、まるで自分が責められているように感じる事以上に、泣けてしまうのだ。女性に共感して。

僕の居なくなった席の横で、彼女はまだ話し続けるだろう。いつのまにかその声は水を含み、目に涙がたまるだろうが、女は男を凝視することを止めない。何故なら彼女は感情を発露しているだけでなく、理論を説いているからだ。

男は、僕は、その理論に応える理論を持たない。ただただ、無言で居るだけだ。そして、男がどうかは知らないが、僕はそんな彼女の意思に、何故か吸い寄せられるように共感して、涙を懸命に堪えるのだ。

  • 朝デニッシュ。
  • 昼ラーメン。あれほど嫌でもついつい食べてしまう。3度目になるこの店はチャーシューがやわらかなので、トッピングで増量してみたら、肉の臭みが鼻につくようになってしまった。これで900円。食べる前には奇跡のように美味そうに感じられるラーメンが、カネを払う段になると本当に辛い物になる。何故にこれで900円か。
  • 夜スパゲティ。