ちょっと墓前に報告があって実家に帰ってきた。電車を降りるとかぎなれた工場の煙のにおい、それから、花粉でクシャミが出る。静岡は2月なのに夏日だったそうだ。

あたらしい駅舎が出来てから1年。駅前のロータリーがようやく完成に近づきつつある。駅舎の入り口は以前の場所からずいぶん離れたのに、接する土地は旧駅時代とかわらないものだから、レイアウトがずいぶんちぐはぐで、無駄に広いようにも感じる。タクシースペースには20台以上のタクシーが行儀よくならんでいる。ワンメーターでたいていのところに行ける街で、どれだけ需要があるんだ? 山間にむりやり造成した“ニュータウン”か?

古い宿場町で、昔はそれなりに栄えていた街だ。旧駅は珍しく跨線橋でなく地下トンネルでホームを結ぶつくりだった。旧駅だって古臭く安い内装だったけれど、いまの駅はほんとうに何の変哲も無い量産型低コスト建築になってしまった。ホームの柱もH型鉄鋼にペンキを塗っただけのもの。屋根を見ると、アルミむき出しの小人のキャットウォークみたいなものがかけられ、そこに電源ケーブルが束になって走っている。まあ、それはそれで美学を感じるのだけれど。

以前、祖母の家で彼女が若い頃の写真を見たことがある。祖母はできたばかりの郵便局で、数年働いていたようだ。写真には、豪華な刺繍のカーテンがかかった郵便局の部屋で、貴族のような制服(?)を着た、きれいな女性が数人写っていた。もちろん写真に写ったものが豊かだったから、当時の街ぜんたいが豊かだったはずはない。いま、駅前は広くなり、下水が通り、通信や交通の環境だって十分な水準の街に住んでいる人々が、貧しいはずがない。

でも、貧しさを感じる。街から個性が削ぎ取られつつあるからだ。

急な帰省で携帯電話のエネルギーが切れそうだったので、USB充電ケーブルを買おうと思ったんだが、だだっ広い駅前には電気屋すら無かった。古い店が無くなり、代りに新しい店が入ってくることは、少ない。かといって、郊外に大規模店があるわけでもない。空港や第二東名はもはや何の意味も成さない。こうやって少しずつ、この街はしぼんでゆくんだろう。

時間は頑固な監査人みたいなものだ。去年よりも監査がゆるくなるということは、決してない。街は生き残るために、監査人の言うとおりに姿を変えてゆく。毎年、毎年、何かを削り、何かを改め。でも、監査は永遠に続く。街が消えてなくなるまで。