未来の解像度

10時前、プライベートの方の携帯電話に母親からコールがあり、数週間前から体調を崩していた祖父の容態が悪くなったと伝えられる。漠然とした状況しかわからないが、帰らないわけにはいかない。

週末に帰省して見舞おうかどうか迷っていたのだが、結局まだ入院もしていないしと、取りやめていたのだった。きょうの定期健診できちんと調べてもらう手はずだったが、その病院に向かう車の中で、一時呼吸停止になったという。意識は戻ったようだが、脳へのダメージの可能性を考えると、なぜ見舞っておかなかったのかと一瞬後悔する。

わずか1時間で会社を早退し、タクシーを捉まえ、東銀座のオフィスで働く妹をピックアップして東京駅に向かう。ビルの間を漂う粘着質の空気にあがないながら進むタクシーの中で、えづきのように突然現れる漠然とした負の感情が、心を襲いはじめる。助手席のサンバイザー一体型フラットモニタに流れる能天気な映画予告や海外旅行のコマーシャルを見ながら、そんな感情を受け流す。携帯電話からリアルタイム降水レーダーサイトをチェックして、現地の雨が止んでいることを知る。暑くなりそうだ。

祖父は昭和が始まる1年前に生まれた。僕が社会人になるころには、自分が社会人になった頃の話を好んでするようになっていた。祖父は戦後すぐに、小学校の教師となった。今風に言えば当時盛んだった木工業のベンチャーに誘われて、葛藤の末断った話など、60年経ってもほんのすこし後悔の色をにじませながら、語っていた。

ただ、就職の直前の話はしなかった。第二次世界大戦で、祖父は徴兵世代だった。だが、戦争には行かなかった。曽祖父がすでに徴兵されていたからかもしれないし、健康のためかもしれなかった。だが、戦後ずっと組合側の教師であったにもかかわらず、やはり戦争に行けなかったことが、いまでもしこりとしてあったのではないか。

もうその真実を聞くこともできないかもしれない。

東京駅のベンディングマシンのタッチパネルを叩き、クレジットカードをマシンに突っ込んで、一番はやい静岡行きの新幹線チケットを2枚買う。北海道のG8サミットの余波で、東京駅にも特殊警棒を持った警官がいたるところ配備されている。待合室のプラズマモニタには、祖父と一回りほど違う老いた総理大臣が、技術デモ用の人型ロボットの後を小走りで追いかけ、情けない笑顔を見せている。

僕は祖父が期待するように、結婚していない。静岡で就職すらしていない。妹は結婚したが、早期流産した。ひたすら老いを感じるだけの生活へと入っていた祖父は、どう感じていただろう。

上りの新幹線が18番プラットフォームに滑り込み、客が降りると、清掃要員とメンテ要員がコマネズミのように車体に取り付き、下り伊の新幹線へと変えてゆく。蒸し暑い。新幹線は雨の影響で、4分遅れで駅を出た。丸の内と汐留の超高層ビルは、灰色の空を反射し、あたりを更に灰色にする。

未来予想図だけがあった1950年代に、祖父は教師として、子供たちに平等に豊かな人生が来ることを願い、その予想図の実現のため努力してきた。

そしてそれは叶った。僕が生きているこの東京は、まさに、未来だ。灰色にくすんで見えるのは、単に天気が悪いからだ。子供はみな豊かになり、自由に海外へとわたり、この未来都市で自由に生きている。

田舎で結婚はしなかったけれど、僕は祖父の願望の結果として、幸せに生きる子孫なのだ。

田舎の病院で、祖父はすっかり縮んでいた。予想はしていたが、わずか3ヶ月前に、それでも普通にソファに腰掛け、世の中のことや仕事のことを語った祖父を思えば、恐ろしいことだった。母や妹ほど、ぼくはユーモアで状況をやりくりする能力に長けてはいない。えづきを抑えるのに苦労した。

幸い、生きている。自然気胸で文字通りの片肺運転となり、会話は極端に困難になったが、頭は明晰のままだ。語れないもどかしさがこちらに伝わってくる。

明日もういちど見舞う。そして伝える。幸せであると。それは見舞いにかこつけた単なる自己正当化なのかもしれないけれど、そうしなければ気がすまないし、それ以外にかける言葉もみつからない。