911は北京で

そういえば、去年テロが起きたときはまだ中国大陸にいたのだった。光陰矢の如し。

2001年の9月11日は確か昼前に北京に入って釈水潭あたり(だったかなあ)の安ホテルに宿をとってたハズだ。海淀区の下町を歩き、夜は中関村でネットをしていた。帰ってきてテレビをつけたが、さすが安宿。見事にテレビは壊れていたのだった。

そんなわけで、僕がテロを知ったのは、12日だ。朝、再開発のせいで廃墟やトマソンだらけになった釈水潭駅から、王府井に向う為地下鉄に乗ったら、構内や車内の新聞売りがきょうはやけに多い。そしてみんな読んでいる。向かいの席の新聞をじっと見たら、そこに、煙を吹くビルと逃げまとう人々が映っていたのだった。

あわてて通りかかった新聞売りのおばちゃんから一部買う。最近創刊されたらしい北京娯楽信報。1塊だった。


今思えばあまりに典型的な反応で笑ってしまうのだが、最初はゴシップ紙が映画の紹介か、シミュレーション記事に派手な写真でもつけてるのかと思った。日本のスポーツ紙みたく、「攻撃」の後にちいさな?マークがあるかと思った。が、まわりを見まわして、真実だと悟った。背筋が痺れるのを感じた。

しかし不思議なもので、地下鉄から出ると、別になんのことはなく観光できるのだった。タクシーを拾っておっちゃんに日本語の挨拶を教えたり、真珠市場で値切り交渉をしたり。午後には、最後の目的地の天津に向うバスに乗っていた。

バスの中で再び紙面を広げて、あれこれ考えた。天津の大学の宿泊所についてからは、テレビをつけると釘付けになりそうだったので、タクシーをそのまま待たせて直ぐに外に出て、周恩来記念館に向った。テロの事は何故か頭に浮かんでこなかった。ただただ、周恩来の人生を思っていた。その後、市の中心部のデパートに入ると、月餅が売られていた。無意識に「ああ、チュソクなんだなあ」と思い、自分の脳内の言語の混乱にはたと気づいた。「秋の彼岸」の概念に対する言語の優先順位は、日本語や中国語よりも、韓国語が上にあるらしい。ひと缶買った。

宿泊所に戻ってからは、無論テレビに釘付けだった。CNNは入らなかったが鳳凰電視台(衛星放送の広域中国語圏ニュースチャネル)が入ったので、朝のニュースエキスプレスでお馴染みの呉小莉が出ずっぱりだったと記憶している。早くケーブルチャネルのたっぷりある韓国に行って、CNNやBBCやスターで英語ニュースを思う存分観たかった。

次の日は、朝からタクシーをメーター立たせずに雇って、フェリー乗り場に向った。まる1日かかる船旅になる予定だった。乗船を待つあいだ、前に立っていた韓国人の老人と知り合った。中国語で話しかけられたので「アタシ日本人アル」と答えたら、案の定日本語で話しかけてきた。麦と兵隊の話をして、日本人はエライよ、とか言ったんで、いいんですかこんなとこでそんなこと言っちゃって、と笑ったら、「僕ぁ歳とってるからイイんだよ」と笑い返した。

不思議なものだ。最悪の生活環境であった文化革命期を生き延びた中国人は、いま何故かあの時代にノスタルジーを感じ、美しい時代だったと懐かしむ。同様に、日帝時代を生きた韓国人は、あの時代を懐かしみ、当時の日本人を美化するのだ。日本人も、公害と貧困で苦しんだ戦後から高度成長の時代を、人情やらなにやら、どこからともなくポジティブなキーワードを探してきては、美しい時代に仕立て上げ、それにつけて現代を批判ている。

老人とはテロのことも少し喋った。老人は「こりゃあ、また世界戦争が始まるかもなァ」と呟いた。冷静に情況を考えれば、全く的外れな想像だ。しかし、世界戦争の時代を生きた人間には、その想像がリアリティを持つのだろう。

……なんか思いきり、思いで語りになってしまった。なんにしろ、奇妙な旅をしたものだ。地球上ほぼ全ての人々が、去年の9月11日から数日間、奇妙な人生の感触を経験していたと思うと、ますます奇妙だ。