言の葉の樹

長距離バスに乗るのに手許に一冊も本が無く、あわてて近くの書店で買った一冊。作者はファンタジーシリーズ『ゲド戦記』で知れた アーシュラ・ル・グィン。カッコイイ名前なんだが、なにしろゲドはおろかナルニアすら拒絶してしまった自分にとっては、怖い響き。彼女はSF作家としても『ハイニッシュ・ワールド』という魅力的な世界を作っているのだが、こちらもゲド恐怖症のおかげで全て未読で、本作がそれに触れる1作目となる。

感想。読み進めて行くうちに、何故か懐かしさがこみ上げてきた。このスタイルは、長いこと読んでいなかったSFだ。『スタートレック:ザ・ネクストジェネレーション』(以下TNG)と同じ味なのだ。

テレビドラマとしての善し悪しは別として、スタートレックシリーズの面白さ(そして恐らくはSFというものの本質的な面白さ)の両輪は、“SF性”と“人間性”にある。SF性とは言うまでも無く、未知の現象・世界を表現して見せる驚きに満ちた感動。かたや“人間性”のほうは、SF的な世界というエキセントリックな舞台設定をもって非常に濃縮した形で見せる、人間の生の本質に対する感動だ。TNGが最も脂が乗っていた第3・第4シーズンでは、(テレビとしては)高品位のSF性に満ちたエピソードが量産された一方、人間性を探る高品位エピソードも多く観られる。例えばエピソード“モースト・トイズ”や“ブラザーズ”などは、アンドロイドを主人公にすることで逆に人間の本質を鋭く描いた、SFならではの傑作だ。

そして、このル・グィンの作品も、SF的世界をもって、人間とは、人間の文化とはを、丹念に、深く、描き出そうとしている。ただ僕は、小説でSFを摂取するようになってからは、世界への視点が変るSF的な驚きの方を重視していた。まず驚くべきSF性があり、そこに人間ドラマの感動が絡むのが最上級のSFで、人間性だけを表現するならばSFである必要も無いと、考えるようになっていたのかもしれない。現に、この小説を読み進むにつれて、不遜にも内面的な描写ばかりで驚きに満ちた世界の描写が無い、退屈な作品だと思うようにたっていった。43分の映像作品であるスタートレックならば、人間性に的を絞ったドラマも許容できようが、微細な表現が可能な長・中編小説でこれをやると、作者の思想ばかりが表に出てしまい、逆に表現される世界が説得力・リアリティを失ってゆくと、頭でっかちに感じていた。

結局、SF的な大転換は最後まで無かった。しかし、僕は物語の最後の最後の3行で、僕は思いがけず涙を目に浮かべてしまった。

朝の喫茶店で読み終えたおかげで、隣りの席のねーちゃんに怪訝な表情で見られてしまった。僕は、ル・グィンの執拗なまでの人間描写に、負けてしまった。繰り返し繰り返し書かれた、ある文明と、ある人々の人生の描写は、すごく深いところで僕の大脳に染み付き、折り重なっていって、それが最後、何のSF性も無いエンディングに到達したとき、ごく自然に、感動の涙となって溢れてしまった。気づかされた。心に染み渡るなにかを得た。長く退屈な作品だと思ったけれど、最後まで読んでよかった。

言の葉の樹。この感動を作り得るのも、SFなんだ。

  • 朝シリアル。
  • 昼パン。
  • 夜ドルソビビンパ。久々に。ごはんがちとべちゃべちゃ。もっと粒の立ったコメでないと、ビビンパは混ぜられない。ところで韓国が実は農作物が非常においしいところであるというのは、あまり知られてないのかもしれない。日本の場合品種改良に品種改良を重ねた努力の結果としておいしいコメというのが成立しているが、向こうはなにしろ土地が良いおかげで、なにもしなくてもおいしいコメが獲れるようだ。全州あたりで食べた野菜やコメは、優劣ではなく単なる事実として、島国というのは確かに土地の痩せたところなのだなあと気づかされるものだった。無論朝鮮半島も場所によりけりだが。