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色々とあったすえ何故か午後3時ごろ新宿にいてしかも今後の時間を持て余しているという情況だったので、ちょっとだけ西のほうに行って映画を観てきた。オウムにまつわるドキュメンタリフィルムやね。

感想は特に無い。というかコレによってすごい問題提起とかカタルシスが得られたとか、新しい視野が開けたとか、そういうわけじゃないし。ただ、やっぱり人間ってオモシロイな、と。

ここはひとつ、最近知って笑ったと言うか感動した文章を剽窃して作ったパロディ文章でお茶を濁しますかね。


単にオウムという現象を裏側から個人として録り直すという企画はドキュメンタリを作る上ではありがちなものではないのかと思っていました。ですから、疑いもしていたのですが、そうはいいながらこのままオウムを既存メディアの上からのみ知ったつもりでい続けるのも厭だと感じて、森達也という映像作家個人の目を通してオウムを見直す作業をして、あらためてあの宗教と社会を取り巻く情況が、世にもっと知られるべき声を発しているのを知って、息を呑んだのです。

絵は特に演出もされない普通の人間のものです。が、いまもオウム現象と言うものを引きずらせる原因というものが、かくも生々とした魂の声を持っていたのかと、驚かされたのです。率直で、時には卑しく、くずれてどこかおかしげな情況であっても次の瞬間に生身の生命を感じさせるリアリティがあったのです。それは、この時代、オウムをなしくずし的に忘れて行く世の中の人たちに、存在を気づいて欲しい空気があったのです。

今の大人たち、今のメディアがまちがいなく忘れていて、かつての地下鉄サリン事件に端を発した漠然とした不安が当たり前の空気となろうとしている今、私たちは、今の私たちが忘れているこの生々とした(ビビッドな)生活感を、物語を、所詮はこれもひとりの人間の主観的視野でないか、という皮肉があったとしても、一度だけでも、見て考えてやっていいのではないかと、確信するに至りました。

このドキュメンタリを頭から賞賛するのは危険だ、とぼくは直感していたのですが、それは正しかったと思っています。なぜなら異常な条件下であっても普通に生きようとする人間の持つ熱気は、ひとをとりこにしてしまうだろうと思っていたからです。ドキュメンタリ史の中でも大局的視野に立ったイメージが個人のちいさな声に勝る感動をもたらした例はありません。ですから、ただヒューマニズム万歳という視点を得るためだけに観るのならやめる。が、何か口実をつくって、あの一連の事件は何だったのかということを世紀の変った今、現象の末端を覗けるラストチャンスの時期に賭けて知ってみようと思ったのです。

イズムで社会を語る人は"立場"がハッキリしないことにイラダツかも知れませんが、それなり以上に細密に描写され、それによってメディアが、我々が知ったあのオウムと社会の関係をもう一度、世に問い、時代というのがただ息詰まるものではないのだと示すことは、絶対にまちがいのないことだと思うのです。

これが真実だなどとおこがましい事は申しません。が、このようにしてでも、本来は我々の一部であるオウムという現象はこうであった、というものを世に送る。これが、このプロジェクトの意義なのだということを理解したつもりだし、又、支援してもよいと思うのです。

すべての人々は、"生きている"と。
君は!

うーんイマイチらしくないなあ。


  • 朝食べず。
  • 昼サンドウィッチ。
  • 夜あさりをフライパンでぐつぐつやって春キャベツを加えてフタしてしゅーっとやったの。ガーリックライス。