テレビにできること。テレビがすべきこと。

国際的に見ればNATOコソボ爆撃の陰になって少し目立たなかったけど、日本では相当盛り上がってるらしい領海侵犯船追跡大作戦。新しい防衛ガイドライン関係で損得勘定があるとかいう話もあるけど、それをメインに持ってくるのが深読みのしすぎでないとしても、今回の日本の対応は、誤ったものではないと、僕は思う。

ただ、北朝鮮関係の事件……誘拐事件や、ミサイル騒動や……が、起こったあとに、いつもソレに呼応して本当にイヤになる事件が起こるのを、僕は覚えている。北朝鮮民族学校生徒に対する嫌がらせ。具体的に言えば、女子学生の着る民族衣装チマチョゴリを切り裂くといった、暴行だ。今回も必ず、事件に乗じて差別にいそしむアホが出てくるにちがいない……。

と、思ったけど、今回からは、そういった事件が実際に起こることは少なくなるだろう。もちろん今回に限っては春休みで満員電車の中にチマチョゴリ姿が無いというのもあるけど、実はこのチマチョゴリ制服、ついこのあいだ、廃止されているのだ。

以下 WEB版朝日新聞 3月6日より引用

全国各地の朝鮮中高級学校で女子生徒の通学用制服をチマ・チョゴリとする制度が、新年度から廃止されることになった。朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)の「核疑惑」や「ミサイル発射」などが報道されるたびに、民族服姿の女生徒に対する脅迫や暴力、いやがらせが増加。心配した父母らからの要望も強く、朝鮮学校を指導する在日本朝鮮人総連合会朝鮮総連)教育局が、「チマ・チョゴリは校内用とし、通学時にはブレザー、ブラウスなどを着用させる」方針を決めた。
同教育局は5日までに、全国61校の中高級学校に「女子生徒の制服に関する規定の一部改正について」という通達を出した。それによると、4月からはチマ・チョゴリを主として校内で着る「第1制服」とし、ブレザー、ブラウスなどを通学用の「第2制服」として制定するよう指導している。
ただ、「差別や脅迫に負けたくない」としてチマ・チョゴリ着用を希望する女生徒や寮生、保護者が車で送迎するなど、安全を確保できる生徒らの場合は「第2制服の着用を義務づけるものではない」という。

引用終わり

誤解を恐れまくってはいるものの(この段落で読むのを打ち切ったりしないで下さいよ)、あえて書けば、このチマチョゴリのニュースを読んだときにに思ったのは、「ああ、またひとつ美味しいネタが無くなっちまった」ということだった。

さあ。誤解を解きましょう。そして、ここからがテレビの話です。



日本国内での差別に関する犯罪で、このチマチョゴリ事件ほどわかりやすい事件は無かったと思う。同じ事件が繰り返して起こっていたし、視覚的なインパクトがある。それは恐ろしくショッキングな映像だろう。そして、これは立派な刑事事件だ。確実に罰っせられるべき犯人がいる。

……僕は、コレをネタにした、刑事ドラマが観たかったのである。そう。アメリカの刑事ドラマのような、社会問題を取り上げた見ごたえあるドラマが。


クオリティドラマと呼ばれるグループを筆頭に、アメリカのドラマ/コメディにおいて、ストーリーを身近な社会問題に求めることは、ごく当たり前のことである。20年近く前の最初のクオリティドラマである警察ドラマ『ヒルストリート・ブルース』から、アメリカでは人種差別、宗教対立、職業差別、貧富の格差、性犯罪、セクシャルハラスメント、同性愛、あらゆる問題がドラマとして扱われてきた。もっとも最たる例は、ディヴィッド・ケリーのドラマ『ピケット・フェンス』だろう。このドラマでは、ローマという架空の小さな街を舞台にして、警察、政治、法廷、救命医療と、それぞれを代表するキャラクターを主人公とし、毎回々々、社会的に大きな影響のある事件を多面的に描いていた。

テレビほど大衆が“観やすい”メディアは無い。なにしろ無料である。文字を追って自らイメージを喚起する必要も無い。アメリカの大衆は、こういったドラマを日常のエンタテインメントとして観ることができる。そして、テレビを通じて得た知識を持って、身近な社会問題に向かい合うことができるのだ。これは明らかに、社会の強みであると思う。

日本ではどうだろうか。“社会派ドラマ”とくくられるグループがあるだろう。NHKに多くて、民法ではスペシャル3時間とかで放送されるもの。あるいは、『都会の森』みたいなシリーズもあったし、社会派ドラマから離れれば、主人公が聾唖の恋愛ドラマもあった(そしてソレは手話を習いたいと考える人たちを少なからず生み出した)。しかし、日本の“社会派ドラマ”と、アメリカの“クオリティドラマ”には大きな違いがあると思う。

それは、クオリティドラマがエンタテインメントとしてもまた、非常に面白い、ということだ。社会派ドラマといえば、暗く重く、非常にシリアスな印象を受ける。そして、一般大衆に対するアピールは得てして非常に乏しい。しかし、クオリティドラマはそうではない。それはたとえば『ER』を観れば明らかだろう。「スマート」で「クール」で、スピーディ/スリリングなストーリー展開(クェークネスと呼ばれる)でありながら、社会問題について(ERで言えばエイズや幼児虐待や医療倫理など以下もろもろ)十分過ぎるアピールを持っている。この高度なエンタテインメントと社会性のバランスは、日本のテレビには無い。

もうひとつの違いは、作品の長さだ。アメリカのドラマ制作スタイルでは、各作品だいたい20エピソード、視聴率が一定水準に達すれば100エピソード以上作られるのが普通である。よって、扱えるテーマも非常に幅が広く数年にわたって影響力がある。こういったドラマが入れ替わりつつも毎年少なくとも5本は放送されつづけることによって、人々は継続的にそういった問題の情報を入手し、いつでも考えることができる。

日本でこういったスタイルのドラマが制作されたことは、殆ど無い。第一、100話以上続いた1時間ドラマといえば、水戸黄門のような時代劇やと西部警察のような刑事ドラマである。あれが市民の社会意識向上に貢献したという話があるだろうか。


しかし、少なく見積もってもアメリカから10年は送れている日本のテレビでも、これからこういったドラマを作るチャンスはある。そして、僕がもっとも作りやすいと思っていたジャンルが、刑事ドラマだった。日本にも刑事ドラマの伝統はあるから、それに社会性を加えてひねってやれば、とりあえずは『NYPDブルー』に近いクールでスピード感のある社会派ドラマができるだろうと考えていた(単純な素人考えですけどね)。そして、チマチョゴリ事件は、そんなドラマの中で扱うにはうってつけの素材であると考えていたのだ。もちろんそういったドラマを放送する勇気をテレビ局が持てるかどうかは別問題としてあるが、僕は人々がドラマを観て、そういった差別問題を身近に感じてゆけるようになると、考えていた。

しかし、チマチョゴリ問題は日本のテレビがそこまでできるようになる前に、自ら消え去ろうとしている。もう誰も、この問題についてトレンドにあったドラマを作ることはできない。人々がドラマを見て広く問題意識を持つチャンスは失われてしまった。

それが、残念なのだ。

結局この問題になんの手もつけなかった日本のテレビが、歯がゆくてしかたない。



民主党政権になったことも影響してか、進歩的傾向の強いアメリカテレビ業界では、社会性のあるテーマを持ったドラマ・コメディは、より先鋭的に、新しい価値観を尊重するようになっている。コメディを例にとれば、未婚の親たちを主人公にした『サーティ サムシング』に始まり、女性の社会地位を問題にした『マーフィ・ブラウン』が続き、そして、97年にはゲイの女性を主人公にし、彼女の苦悩をギャグに取り混ぜて描いた『エレン』が制作された。物語のなかでの主人公エレンのカミングアウトは、何千万という敬虔なキリスト教徒を混乱/激怒させ、アメリカ全土に強い反響を巻き起こした。そして、現在に至っては同じくゲイの主人公でも、「ゲイであることに特に悩まず、楽しむ」というコメディ、『ウィル&グレース』が公開されている。このコメディで、ゲイ問題は、問題でなく、全くただのギャグとして使えるようになっている。テレビを通じてゲイの権利という社会問題のあり方が進展しているのだ。

このようなことができるのが、テレビなのだ。高度な文学性、社会性と、普遍的なエンタテインメントの融合。

日本のテレビだって、できるはずだ。