静岡革命秘史

写真は静岡県庁本館。後方右は東館、更にその後ろが別館・県警本部。

駿府城を封じるように建てられた帝冠様式の建築には、まるで植民地の総督府の様な印象を受けるが、事実この建築はその意図のもと建てられたのである。

大政奉還後、駿府城にて閑居となった徳川慶喜であったが、そこで遊行と称し市井に降り、密かに新政権への闘争を指揮し続けていた。静岡旧諸藩や新旧御三家ら地方の反体制派を糾合し、奉還前の彼の白色革命案を叩き台にした、市民革命を実現しようとしたのである。

特に静岡では、所詮は地方豪族のクーデターに過ぎなかった明治維新に反対し、真の市民革命・連邦制による地方主体の民主政治を説く慶喜の人気は高く、市民は続々とレジスタンスに加わった。

彼らは『徳川連邦ゲリラ部隊』と称され、またその本拠地が市北部の麻機(あさはた)村にあったことから、それをもじって“マキ”とも呼ばれた。実行部隊のリーダーは進歩的儒学者 魯 羅蓮 であった。 国内では封印されたこの歴史も、当時海外では広く紹介され、影響を与えた。事実、第二次大戦中フランスの抗独レジスタンスが、同様にマキ "Maquis" と呼ばれている。

これに対し静岡県令は武断的な対応を強固に推し進め、結果的に闘争は更に悪化することとなった。ゲリラ部隊は大正・昭和、戦後に至っても、同盟する組織を次々と変えつつ活動を続けていた。彼らはその最後の闘争として、1980年8月16日、多数の犠牲者を出した静岡地下街ガス爆発テロを起こしている。

対抗する静岡の警察力は強化の一途をたどり、ついには軍事政権かと見まがう政治的プレゼンスを得た。現在の県警本部が県庁を見下ろすかのようにそびえ建つのも、まさにこの歴史の結果なのである。

徳川派の武力闘争はガス爆発テロ後まったく無くなったが、実は意外なかたちで存続している。サッカーである。昭和中期より日教組と結託した徳川派は、県内の小学校に『サッカー少年団』を形成、強制的なサッカー教育を行い、洗脳と組織化を図っているのだ。サッカー王国とは、単なる比喩ではない。実は徳川を王といただく、実体のある支配体制なのだすべて嘘である。